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まぁ、このような過疎のブログにお越しいただく方もそう多くは無いと思いますが、せっかく来ていただいた方々に何らかのお土産をお持ち帰りいただけるよう今後とも「私なりに」努力していく所存でございますので、今後ともよろしく御願い致します。 と、まぁ、心細い言葉を羅列いたしましたが、本日の御題としては、「馬鹿を相手に議論する事は可能か?若しくは、有効か?」といった具合で進めさせていただきます。 バス問題において「対立」という言葉が不可欠である。これは、バスを利用したい者とバスによる食害を解消したいものとの対立をあらわすものと考えればよろしいかと。 で、最近ネット上で見かける対立構造の中に上記とはまったくかけ離れたところで、 「議論の相手が馬鹿である」 と明言しながら 「議論している気になっている」 人を見かけたので考察してみたい。 まず、議論とは何ぞや?というと、 「議論とは人の意見を聞いて理解する場」 であると考える。 だから、「馬鹿を相手にしても議論は始まらない」のではないだろうか。 しかし、「馬鹿」というのはそもそも「相対的な価値観から生まれる表現」であって、絶対的なものではない。ある人から見て「馬鹿」に見えても、他のある人から見た場合「馬鹿」には見えない事もままあるわけである。つまり、議論の相手に対し「あなたは馬鹿だから…」と冒頭で宣言した場合、「あなたのような馬鹿な相手の意見を聞いても納得できるはずも無く、そのようなレベルの低い意見によって私の考え方を変えるつもりはありません。」と言っていることに等しく、結果として議論を拒否している事になる。 さらに、「議論の相手に馬鹿と言ってしまうような考え方」をする人が、あたかも「議論しているような錯覚」に陥ってしまうのはなぜだろうか? それは、「自分は論理的思考の持ち主であり、私の考えは絶対的(もしくは、ほぼ完全)に正しい。」という奢りから始まっている。直感的に感じたことを正解と仮定し、自己の知識の範囲内でそれを検証し、自らの思考パターンに照らし合わせ正否を判断する。で、そこから得られた「正解」は当人にとって絶対的なものであるから、それにそぐわない他人の意見は「馬鹿の思考」以外からは導かれないと判断する。つまり単なる自己都合主義的思考回路の持ち主なのである。 したがって、バス問題において、「お前は馬鹿だと宣言するような輩を相手に議論をしても得るものは極めて少ない。」というのが私の結論である。簡単な言い方をすれば、「非難の応酬」でしかないだろう。そこに何の生産性もない。 等と綴って、2008年をスタートしたいと思います。 |
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